古事記・日本書記では、崇神天皇が即位して9年、大和国内には疫病が蔓延し、多くの人々が死に絶えようとしていた事を、大いに歎き悲しんだとあります。同9年3月15日のある夜には、天皇の夢のなかに神人が現われて、「赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を以て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠れ。亦(また)黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神(おおさかのかみ)を祠れ。」と告げたのです。天皇は、さっそく墨坂神と大坂神に盾と矛を奉献(貢物)し、祀ったところ、疫病や災いが無くなり国内がやすらかになりました。 その後、天皇は近畿とその周辺までその勢力範囲を広げ国を治めることとなったので大和朝廷を確立した最初の天皇と考えられ、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と褒め称えられることもなったのです。
この墨坂の神は当神社の御祭神で、大坂の神は大坂山口神社(香芝市逢坂)の御祭神ですが、いづれも古代大和への東西の重要な入り口として疫病の侵入などを防ぐ神々であることから、当社は厄除け・地鎮・方位除け・病気平癒・交通安全などを祈願する参拝者がたくさんおられます。
日本書紀の、神武天皇即位4年春の詔に「乃立霊畤於鳥見山中、其地号曰上小野榛原・下小野榛原 用祭皇祖天神焉」の記載があり、神武天皇みずから鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、皇祖天神を祭祀し、「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)、下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とあります。その上小野榛原が当地墨坂の地であり、現在は宇陀市榛原西峠地区内にあります。
宇陀市役所収蔵【大和宇陀神武天皇御聖跡御図絵】
宇陀市ホームページ【神武伝承と宇陀の伝説について】
同紀の神武天皇即位前紀の条には天皇軍東征のみぎり、大和菟田の高倉山から国見をすると、賊軍が天皇軍を防ごうと墨坂に”いこり炭”(山焼きの意味)をもって防戦したため、菟田野川の水をもっていこり炭を消火し、敵の不意を打って勝利した。墨坂の名はこの故事にちなむとその名の由来が記され、天武天皇白鳳元年(673年)には大來皇女を使者として金幣帛一対を奉幣されたとも伝わっています。

墨坂神社は当時から祀られていた神々を文安6年(1449年)9月28日に上榛原天の森より下榛原天野(現在の宇陀市榛原萩原天野)に遷座されたものです。
この天野の地は天富命の蹄跡とも伝えられ、明治初期までは神仏混合により偏照山薬王院天野寺として祀られており、六社権現または天野宮とも称されていました。

墨坂神社の秋の大祭では、かつて伊勢街道の西峠付近の「天の森」に鎮座しておられたのを文安6年(1449年)9月28日に現在の所に遷座した事から、お旅所から現在の社地までの約1kmの道のりを、猿田彦を先頭に武者、赤盾・赤矛・太刀などを持ち還幸の神輿行列が華やかに神社に渡ります。

宇陀市ホームページ【神武伝承と宇陀の伝説について】
同紀の神武天皇即位前紀の条には天皇軍東征のみぎり、大和菟田の高倉山から国見をすると、賊軍が天皇軍を防ごうと墨坂に”いこり炭”(山焼きの意味)をもって防戦したため、菟田野川の水をもっていこり炭を消火し、敵の不意を打って勝利した。墨坂の名はこの故事にちなむとその名の由来が記され、天武天皇白鳳元年(673年)には大來皇女を使者として金幣帛一対を奉幣されたとも伝わっています。

墨坂神社は当時から祀られていた神々を文安6年(1449年)9月28日に上榛原天の森より下榛原天野(現在の宇陀市榛原萩原天野)に遷座されたものです。
この天野の地は天富命の蹄跡とも伝えられ、明治初期までは神仏混合により偏照山薬王院天野寺として祀られており、六社権現または天野宮とも称されていました。

墨坂神社の秋の大祭では、かつて伊勢街道の西峠付近の「天の森」に鎮座しておられたのを文安6年(1449年)9月28日に現在の所に遷座した事から、お旅所から現在の社地までの約1kmの道のりを、猿田彦を先頭に武者、赤盾・赤矛・太刀などを持ち還幸の神輿行列が華やかに神社に渡ります。

